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岩国基地と岩国駅空襲【前編】

 

鎌倉駅前、島森書店

 

6年前のニュース/オスプレイ訓練・四国ルートに変更

[平成25年3月5日]

 

在日米軍が6~8日に岩国基地(山口県岩国市)を拠点にオスプレイ訓練を予定している。

岩国基地

 

今回の話はオスプレイとは関係なくて恐縮ですが、岩国の米軍基地のこと、岩国駅空襲後の体験談をお伝えしたいと思います。

 

 

以前、平成23年頃デイサービスでドライバーをしていたときに、利用者のKさん(女性・当事86歳)の体験が綴られた小冊子をいただきました。

『お砂糖ってこんなにおいしかったかしら』という本です。

その内容が面白く、タイトルのセンスにも感心しました。

すでにその会社も無くなりましたが本は今でもちゃんと保管しております。

 

埋もれさすにはもったいないと思ってましたので、その内容を一部紹介させていただきたきます。

皆様元気でお過ごしでしょうか?いつまでも健やかでいて下さい。

当事の体験談(kさん女性)

 

『空襲警報』

突然、空襲警報が鳴り出したので、祖母の手をひいて裏山の穴の中に入った。

「なんだろう?」と祖母が不安気に振り返った。

私にもわからない。

後から男の人がゆっくり登ってきて、「岩国駅が、上りと下りと汽車が同時に入った時を狙って空襲された。爆弾がたくさん落とされ、駅は粉みじんにやられ、たくさんの人が死んだと情報が入った」

と青い顔で知らせてくれた。

 

ここは岩国川をはさんで山の陰だ。

「大丈夫よ」と祖母に言い、しばらくじっとしていたが、その後物音が静かになったので、

「おばあさん、もう大丈夫そうよ」と外に出て家に戻った。

 

夕飯の支度をしようと米櫃をのぞくと、祖母用にと取っておいた白いお米は米粒を数えるくらいしかない。

馬鈴薯も食べ尽くしてしまった。

豆粒まじりの米で柔らかい雑炊にして、小麦粉のすいとんでも入れたら量が増えるだろう、味は味噌を少し入れたらまた変わった味になるだろうと考えながら。ゆっくり柔らかくなるまで煮ることにした。

 

「こんなものしかなかったから、我慢して食べてね」

「ありがたいよ、みんなですすろう」

 

「食べよう」ではなく「すすろう」と言う祖母が、何か可哀想な気がしたが仕方がない。

 

明るく楽しい食事にしようとしゃぶしゃぶのおかゆを楽しい話をしながらすすり、食事を済ませた。

 

「おばあさん、ここは山の陰だから飛行機からは見えないので安心して寝てください」と言うと、「おやすみありがとうよ」と言って祖母は背を丸めて寝室に入っていった。

 

『草鞋』

突然戦闘服を着た男の人がやってきて、「先ほど上りと下りの汽車が同時にはいった岩国駅で大勢の死者が出たので、明日一軒から一人、死体の片付けの手伝いに出てください」と言ってきた。

 

「はい、参加いたします。明日は何時にどこに行けばいいのですか?」と聞くと

「若い貴女には悪いけれどお願いします。明日臥龍橋(がりょうばし)のところに朝九時半に集まってください」とのこと。

バスが出ないから歩いていかなければならないので、「歩きやすい履物で…」ということだった。

バスでも一時間かかるところだから大分かかるだろうなと思いながら、早めに寝床にはいった。

 

翌朝早めに起き、祖母や妹に水のようなおかゆを作って、「安心して寝ていてね」と声をかけ、出かけた。

臥龍橋の所には、中年のおじさん、おばさんが集まってひそひそ話をしていた。

私が近づくと、「若いのにご苦労だね」とねぎらってくれた。

 

これから二~三時間は歩かなければならないので皆は草鞋を履いていたが、私はつま先の破れた運動靴。

「今度草鞋を買っておこうと」と思ったが、考えてみれば履き方がわからないと気付いた。

※臥龍橋(がりょうばし)岩国の錦川、錦帯橋の南側に掛かる橋

 

わらじ(写真提供 designshop-jp.com)

 

『明日はどうするの!』

一斉に川伝いにぞろぞろと歩き始めた。

その時、突然空襲警報が鳴り響き、飛行機の音が近づいてきた。

町内会長さんが「耳を指で押さえてうつ伏してください!」と大声でどなった。

すぐ両手で耳を押さえ、こやしの匂いがする畠の中にうつ伏せになった。

 

頭の上を通る飛行機を手をずらせて見ると、若いアメリカ人の兵隊が見えた。

脅かすように機銃掃射をして通り過ぎていった。

あの外人も父や母と別れて戦地に駆り出されたのであろう。

世が世なら、大学にかよっていたであろうに…と、つくづく戦争などするものではないと思った。

 

ずいぶん長いこと黙々と歩いて、やがてお寺が見えてきた。

真っ先に目に付いたのは境内に山と積まれた死体であった。

手を空に向けたまま死後の硬直になっているので、三体積むと手が届かない高さになる。

皆、目を向けたが、見なかった風を装い通り過ぎた。

 

池ほどの大きな穴がたくさんある所に着き、「これが爆弾の落ちた穴だ」と聞き、びっくり驚いた。

 

岩国駅周辺の絨毯爆撃

 

その横に積まれた小山ほどの土に鍬を入れた人が、「お嬢さん、ちょっとあちらに行ってらっしゃい」と言ったので、離れて横目で見ると、鍬の先に髪の毛がひっかかった女の人の死体が出てきた。

作業の団長さんは私が見ないようにと気を遣ってくださったが、なにか気持ちが麻痺しているのか何も感じなかった。

子供をしっかり抱いている死体が死後の硬直で子供と離れなかったとか、馬子が馬を抱きしめて死んでいたなど涙が出る話ばかりだった。

 

積まれている死体に「さぞ悔しかったでしょう…」と心からお悔やみを言って帰ることになった。

 

「戦争って皆が犠牲になるのだ」と思うと何かしゃべるのも恐ろしくて黙々と帰りを急いだ。

お寺の境内がみえるところまで戻ってくると、皆一斉にお辞儀をして冥福を祈った。

 

家に着くと祖母が、「大変だったね。疲れたろう。ご飯炊いておいたよ」と言って、お釜の蓋を開けて見せた。

真っ白いご飯が釜の底にひっついていた。一合あった祖母用のお米を炊いたらしい。

「明日おばあさんの食べるものがない」と思った途端、「明日はどうするの!」と思わずかっとなって怒鳴ってしまった。

祖母は頭を抱えて寝室に転がり込んだ。

 

「あぁ、せっかくのおばあさんの気持ちを踏みにじった。悪いことをした」気が立っていたのだ。

 

思い直して、「ごめん、ごめん。気が立ってた。ありがとう!お腹ぺこぺこだ。嬉しいよ」

と私が言うと、祖母は「ああ、よかった。さぞくたびれているだろうと思って…。今日は皆でゆっくり食べよう」と言った。

一膳ずつお茶碗に盛り、百回くらい噛んでいると涙がでるほど美味しく、楽しく楽しく食べた。

 

 

著者がまえがきにてこう述べていました、『ー今の時代の、ものが豊かで捨てることが当たり前のようになり、まただんだんとあの時代の方が少なくなり、忘れられてしまうと思ったからです。』

『私の孫が小学生の頃、食べるのに苦労したという話をしてやると、「おばあちゃんの家はごはんも食べられないくらい貧乏だったの?」と言われ、物がないということが分からないのだとつくづく思いました』と。

戦時中はなぜ食べ物が無かったのか、当時戦争での何十万人という兵隊さんのために各世帯から食料の提出が義務付けられていた、多くの家庭では苦しいながらもお国のためと空腹を耐えていたんですね。

戦争の体験は本当に大変なことだと思いますが、苦しいながらもちょっとユーモラスな感じで明るく楽しく暮らそうとしていた人たちの体験もまた貴重だと感じております。

 

 

《こちらは体験者の記録が充実しているおすすめサイトです》

岩国空襲【岩国 原爆と戦争展】

 

 

⇨【後編】[岩国基地についてまとめ]も見る

 

 

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